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小沢一郎平成政治塾(8)ー日本改造計画

僕が関わっていた仮説実験授業というものは、実験の前に予想を立てさせて、なぜその予想を選んだのかを議論し、議論が出尽くしたあと実験によってどの予想が正しいかを確認する、ということを続けるものでした。

予想をする対象は、教科書などに出ている問題ではないので、優等生があらかじめ予習して知識として知ることが出来るようなものではありません。たとえば、「ものとその重さ」という授業では、

<問題>
体重計に乗って、
1 普通に両足で立つ。
2 力を込めて立つ。
3 片足で立つ
という違う立ち方で計ったときに、どのような違いが出てくるか。
ア 1の時が一番重い。
イ 2の時が一番重い。
ウ 3の時が一番重い。
エ どれも同じ重さ。

という問題をやります。これは、誰もその結果を知らないので、実験をする前はどれが正しいか分かりません。そこで、自分が正しいと思う理由を挙げて討論をし、その討論の中で、他人の意見が正しいと感じた人は、自分の予想を変えることも出来ます。そして、意見が出尽くしたあとで、いよいよ実験となり、その結果でどの予想が正しかったかというのを見ます。

このようなやり方で、何が学べるかと言えば、次のようなものです。

・真理は多数決では決まらない。客観的な事実が真理を決定する。
・他者の考えを聞くと、自分だけで考えているよりも深い真理を学ぶことが出来る。多面的な見方を知ることが出来る。
・予想は間違えてもいいもので、より正しいと思えるようなものを見つけたら、いつでも気楽に正しいものに変えることが出来る。間違いに固執することはない。

実際の仮説実験授業は、この問題一つにとどまらず、いくつかの問題を続けて行うことで、ある科学法則を自分の頭で発見するように導こうとしています。「ものとその重さ」の場合は、重さというものが、どれほど分割しても変わらない、二つを合成すれば足し算として計算できる、というような事実から、ものが原子から出来ているという原子論的世界観を導こうとしています。

この授業の過程で、子供たちは、民主的な討論とその判断というものも学びます。授業では、知識をたくさん持っている優等生が、必ずしも議論をリードすることがありません。問題の選び方もあるのですが、なまじっか知識がありすぎて、しかもその知識が本当に緻密なものでないときは、かえって予想を間違えることがあります。そのときに、議論をリードするのは、普段は全くトンチンカンなことを言いそうな、自由に自分の頭でものを考えることが出来る子供になることがしばしばあります。

そのような子供は、みんなが知っているわかりきった問題に対してはいつも間違えてしまいますが、みんなが分からない、新しい発想が必要な問題の時は、その新しさを見つけるきっかけを作ってくれます。ここに、多様な考えを持つ人間がいることの大きな価値が理解できるという、民主主義のすばらしさの理解が生まれます。

小沢さんが理念として提起している民主主義というのは、仮説実験授業が求めてきた教育の姿とよく重なるのを感じています。だからこそ小沢さんの理念に魅力を感じると言うこともあるのですが、多様性に価値を見いだすという経験が、「真の民主主義」につながるような気がします。

仮説実験授業は、科学を知識の記憶としてとらえるのではなく、根源的な法則性をとらえることを目指します。そのためには、知識として常識となっていることを否定するような多様な視点を経験することが必要です。

今の日本の現状も、社会に常識として通用していることで解決できない、新たな問題が多く発生しているものに感じます。それに対処するには、「日本型民主主義」のように、常識を前提にして、みんながこう考えるからこうしようというような発想ではなく、全く新しい観点から物事を見なければならないのではないでしょうか。そのような状況に対して、小沢さんが言うように「真の民主主義」に目覚めた多くの国民が必要なのだと感じます。
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小沢一郎政治塾(7)ー日本列島改造計画研究


「日本型民主主義」は、いわゆる「空気を読む」ことで有力者の意向を忖度して、結果的にそれが多数意見であるかのように装うという面があるように思います。これは、「お上が正しい」「お上は慈悲深く下々の民のことを思っている」という、水戸黄門的なメンタリティがあるからではないかと感じます。

宮台真司さんは、江戸時代の統治の見事さを指摘していましたが、「武士は食わねど高楊枝」という言葉に表れているように、支配階級である武士は倫理的に非常に高い志を持っていたように思います。しかし、残念なことに、現在の指導者層にはそれほど高い倫理性が見られないので、「お上が正しい」というメンタリティでは、国民は政治的判断を間違えるのだと思います。

政治家としての小沢さんは、自分の判断の正しさを確信を持っていると思いますが、それを押しつけるのではなく、国民一人一人がそれを理解して、民主的に決定してほしいと望んでいるように感じます。それが「真の民主主義の確立」に、僕には見えるのですが、世間のイメージは権力の権化とも言うべき独裁者というもので、このギャップはかなり大きいと思います。

小沢さんは「日本型民主主義」は、談合の民主主義だとも言っていたようです。談合というのは、談合する指導者層が優れた人なら、全体を配慮して、全体の利益が最も大きくなるように談合で決定するという指摘もあります。しかし、現在は、談合する主体にそれほどの賢さが見えない上、談合する主体そのものが、日本全体の利益を考えるのではなく、狭い範囲の業界の利益のために談合しているので、談合の欠点だけが見えてしまうのだろうと思います。

この欠点を克服するためには、より広い視点が必要ですが、それをもたらすものが、国民一人一人がその決定に関与するという民主主義なのではないかと思います。小沢さんは、国民一人一人に、狭い自分の周りの日常だけでなく、大きな国家という視点も持って政治的なことを考えてほしいと望んでいるように感じます。それが「真の民主主義」の確立ではないでしょうか。

そのためには、すずむしさんが指摘する教育の問題が重要だと思います。「真の民主主義」は、我々の生活のすべてに関わってきますが、特に未来の世代を育てる教育に深く関わってくるように思います。各論では、民主主義者を育てる教育についても議論できればと思います。

小沢一郎の政治塾(6)ー講師秀0430さん

<追記>

小沢さんの理念が、「有力者」の私的な考えの押しつけを否定し、議論を経た個人の考えが集約されて決定されることを尊重することが「真の民主主義」だというのは、これまでの小沢さんのイメージからはずいぶんとかけ離れているのではないだろうか。

小沢さんの豪腕というのは、その力(金の力)によって、小沢さんの個人的な意志を押しつけてきたというふうに見られている。しかし、小沢さんのここに書かれた理念を理解する限りでは、それは全く正反対のことで、そのような独裁をこそ排除したいというのが小沢さんの理念になっている。

小沢さんは、現実の政治手法として、この理念を否定しているのか、それともマスコミが作ったイメージが嘘だったのか、これはよく見ていかなければならないと思う。僕は、かなり確信を持って、マスコミイメージの方が嘘だったのだと今は感じている。

なお、各論に関しては、小沢さんがこの理念を実現するための具体的な手段として語っているものだと思われる。それもまとめておくと、まえがきに書かれている次のようなものになるだろう。

1 政治のリーダーシップを確立すること。
 (政策決定の過程を明確にし、誰が責任を持ち、何を考え、どういう方向を目指しているのかを国内外に示す必要がある)

2 地方分権
 (国家全体として必要不可欠な権限以外はすべて地方に移し、地方の自主性を尊重する)

3 規制の撤廃
 (経済活動や社会活動は最低限度のルールを設けるにとどめ、基本的に自由にする)

理念実現のための手段として、この3つの方向が、各論において提起される。そして、それが正しいかどうかは、実際に理念実現のために、その具体的方法が有効に寄与するかどうかという判断が評価基準になるのではないだろうか。本文で展開されている各論において、細かく具体的に考えていきたいと思う。

小沢さんがぶれないと言われるのは、その基本理念が変わらないからだろうと思う。そして、小沢さんのすごさは、この基本理念が、すべての各論に論理的に浸透していることだ。語られている各論は多岐にわたっているが、その基本はすべてこの理念からの考えに貫かれている。

すずむしさん  2011年01月02日 00時49分

わたしがこれまでとは180度転換して小沢支持に変わったとき、さっそくこの小沢応援コミュに入ったものの、実は、コミュのシンボルが小沢氏の顔であったことに少し抵抗がありました。
わたしのPFをみると、すぐに小沢氏の顔が目に入ることに抵抗があったのです。
それって、「村八分」的になることを恐れたのかもしれません。小沢支援といいながらも堂々と名乗れなかったということです。
それはリアルの世界では依然として今も同じ状況です。特に友人などにはなかなか話せないでいます。
なぜか、日本では政治の話はご法度的な感じがあるのです。それはとても不思議なことです。
意見や主義主張が違うからって議論が白熱することはあっても、議論の白熱はケンカや仲たがいではないし敬遠したりするようなことではないと思っています。でも、ほとんどの日本人にはそういう感覚があると思います。島国日本人の特性なのか??

このことは、政治の世界でも同じであるのではないでしょうか?
だから力のある人の決定には不満でありながらも従う、それがしこりとなり後々までうらみを残し足の引っ張り合いをしている。小沢氏にうらみを抱いている政治家はそういうことなのではないでしょうか?

つまり、民主主義だといいながらも小沢氏の指摘する「日本型民主主義」なのであり、真の民主主義を理解していないのだと思います。

日本人の特性ともいえるこの傾向、日本の小沢氏のいうところの真の民主主義を植えつけるのはかなり難しいのかもしれない、、、
小学生の教育から変えないと、浸透しないのではないのかしら、、、、。

小沢氏のいう国民の自立とは、そういうこと(真の民主主義=右倣えでなく話し合いのうえの合意でなくひとりひとりの意見を表明すること)だったのですね・・・



日本に真の民主主義を打ち立てる」という基本理念


どの本でも、その本での中心となる主張はたいてい「まえがき」の中で語られる。小沢さんの基本的理念は「日本に真の民主主義を確立したい」ということだと言われることが多い。そのようなものが「まえがき」でも語られている。ここには「日本型民主主義」と言われるものが、多数決による決定ではなく、話し合いによる合意で決定されるものだと指摘する文章がある。

この「日本型民主主義」は「真の民主主義」ではない。これの欠点として、合意が得られない場合は決定が出来ず、誰か一人反対者がいると決定が遅れるということが指摘されている。これでは、動きの速い現代の世界では対応できないものになるという。これに対して、そのような欠点を克服する「真の民主主義」というものを日本社会に打ち立てたいというのが小沢さんの理念の中心にくるものではないかと感じた。

この理念を理解するには、「日本型民主主義」の欠陥を具体的に知り、その欠陥を「真の民主主義」がどのように克服するのかと言うことを理解しなければならない。小沢さんの理念を言葉で理解するのは易しいが、その内容を理解するには深く考えなければならない。「日本型民主主義」の欠点と、その克服を考える中で、小沢さんが提示する「真の民主主義」の概念を考えてみたい。

小沢さんは、日本社会には自己責任の考え方がないという指摘をしている。これは「日本型民主主義」の欠点だという。「日本型民主主義」では、合意が決定の基本にある。その合意を崩す反対者は、決定を阻止したものとして表向きは責任を問われることがない。これはどうしてだろうか。

日本では、明確な多数決をとることはないのだが、ある種の「空気」があって、それが「みんなの考え」だというものを忖度して受け入れなければならない。それがなぜ正しいかというのはよく分からないが、とにかくみんなそう思っているらしいから、自分は我慢して合意を受け入れると言うことがよくある。

小沢さんは、「個人は、集団への自己埋没の代償として、生活と安全を集団から保証されてきたと言える」と書いている。自分としては、反対したいけれど、「生活と安全を保証される」から我慢しようという動機が生まれる。では、このときあくまでも自分の思いに忠実に反対するとどうなるか。

小沢さんは、このようなときは「同調しないものは村八分にして抑えつけられる」と語る。この論理関係を理解するのはとても難しい。日本社会では、合意が重要だから、一人でも反対すれば決定はされないという。だが、その一人の反対者になれば、村八分という制裁を受けるという。これは制裁であって、責任を問われたのではない。反対をすれば、決定を阻止できるのだが、その代わりに制裁を受ける。これでは反対が出来ないのではないだろうか。

結局、日本における合意というのは形式的なものであって、みんながそれに賛成したという表向きの形を作ることが大事だと言うことが分かる。それではその決定は何が要因となって決定されるのか。それは「有力者」と呼ばれる人の意向が決定に大きく関与するということになる。

「日本型民主主義」は、多数の意見によって決定しているように見えるが、実はその場の空気を支配している「有力者」の意見によって決定しているものになる。これは「民主主義」ではない。本来の「民主主義」であれば、個人の意見のぶつかり合いの中から、議論を経て多数を獲得したものが決定に関与すべきだ。だが「日本型民主主義」では、決定があらかじめ決まっていて、その決定を追認する儀式が「民主主義」のように装われていると言えるだろう。

「有力者」の決定に反対する人間が村八分の制裁を受けるというのは、少数者がいじめに遭うという日本社会の体質を象徴しているようにも思われる。これこそを改革して、「真の民主主義」を打ち立てるという小沢さんの理念は、とても共感できるものだと思う。

「日本型民主主義」を否定し、「真の民主主義」を確立するには、個人の自立と自由というものがなければならない。小沢さんの理念を実現する手段としては、「個人の自立と自由の確立」というものが、その理念から導かれるものとなるのではないだろうか。冒頭のグランド・キャニオンの喩えがそれを示しているものと思われる。

「真の民主主義を打ち立てる」という理念は、非常に抽象的なものなので、この解釈というのは人によって様々ではないかと思う。その解釈について、きっと建設的な意見交換が出来るだろう。何が「真の民主主義」なのか。どうして今の「日本型民主主義」はだめなのか。具体的な指摘とともに自分の考えを提示してもらえると、きっといい議論が出来るのではないかと思う。

小沢一郎の政治塾(4)ー講師、秀0430さん

「その歴史の教訓に照らして、政治の改革を考えるなら、改革の基本的な方向は、最高責任者が責任を持って政策決定できるように、いたずらに分散した権力を、形式的にも実質的にも民主主義的に集中化することだと私は思う。」

と主張するのだろうか。優れたリーダーがいなければ、このようなシステムがあっても、それをうまく使いこなすことは出来ないだろう。だから、まずは優れたリーダーの登場こそが最初だという考えがあるかもしれない。だが、現状のシステムが強いリーダーがいなくてもすんでしまうようなときに、果たして強いリーダーが出現するだろうか。

これも、鶏と卵のようなもので、強いリーダーが先なのか、システムを作った後に強いリーダーが育てられるのか、どちらが可能性が高いかは、論理の問題ではなく、我々の選択の問題ではないかと僕には思える。

小沢さんは、システムの構築をした後に、強いリーダーを育てるメカニズムをそこに作ることを考えているようだ。権力の集中に失敗の可能性があろうとも、システムの設計の時によく考えて、その中から本当に優れたリーダーが成長してくるような配慮をすることが小沢さんの考えのように思う。

それをどのように設計するかというのは、また具体的な各論の話になるが、改革の方向性としては、まずはシステムの構築の方から手をつけるというやり方に僕は賛成する。天才の出現を待つよりも、この方が能動的で可能性を感じるからだ。

具体的なシステム構築に関しては、このトピックでまた考えていきたいと思う。
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